「生きる力」を育てる教育について

杉並区議会 平成30年度 第1回定例会 一般質問/井原太一  (平成30年2月14日)

 

杉並区議会自由民主党の井原太一です。

会派の一員として、通告に従って、一般質問をいたします。

 

質問項目は、

「生きる力」を育てる教育について

であります。

 

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「すすんで考えやりぬく子」

「心ゆたかでたくましい子」

「なかよく助け合う子」

これは、私が住む町の小学校が掲げている教育目標です。

また、杉並区の教育ビジョン2012では、「目指す人間像」として、

「夢に向かい、志をもって、自らの道を拓く人」を掲げ、そのために「育みたい力」として、「自ら学び、考え、判断し、行動する力」など5つの力を挙げています。

どれも大切なことだと考えます。

そして、これらは「生きる力」につながっている、と私は考えます。

つまるところ私たちは、すなわち学校も家庭も地域も、教育委員会、行政も議会も、杉並区の子供たちの幸福を願い、この子たちにどのように育って行ってほしいのか、どのような力を身につけてほしいのか、そのために私たちは何ができ、何を手伝えるのか、それを共に考え、時に苦悶し、行動して来た訳です。

「生きる力」とは何なのか、どのようにして子供たちのその力を育てるのか、

これまでにも、私は幾度か論じ、部分的には質問をさせていただきましたが、ここで改めてそれをまとめて考え直し、問い直したいと思います。

 

かつて、明治維新を迎えた日本は、教育制度の近代化を進め、国民に対する初等教育から中等教育・高等教育までの近代的な学校制度を確立して行きました。日本は国力を高め、欧米列強の植民地になることなく、発展を続けました。

敗戦により荒廃した日本で、人々は大変な時代を生き抜いて来ました。このとき「生きる力」は、死なずに生きること、生命を保つ力であったのかもしれません。

戦後日本の復興を支えたのは、教育に支えられた国民一人ひとりの力でした。そのときに必要であったのは、知識や学力、優秀な成績であったのかもしれません。日本は経済発展を続け、学歴社会、受験戦争と言われた時代を経て、成熟した社会に育って行きました。今は、グローバル化という国際環境の変化のなかで、日本の人々がつけるべき「生きる力」は、また別のものに変わって来たと考えます。

 

1996年に文部省中教審が「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」答申した中で、これからの子供たちに必要となるのは「生きる力」をバランスよく育むことだ、という趣旨を述べました。

そのような理念を受けて、2002年以降実施の学習指導要領では、ゆとりの中での特色のある教育によって生きる力をはぐくむという方針となり、平成14年(2011年)以降実施の学習指導要領では、ゆとりでも詰め込みでもなく、「生きる力」をよりいっそう育む方針へと変わったと理解しています。

この「生きる力」とは、知・徳・体のバランスのとれた力、すなわち、

知=「確かな学力」=基礎・基本を確実に身に付け、自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、

徳=「豊かな人間性」=自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などを持つことであり、

体=これは「健康・体力」

これら3つのバランスのとれた力をつけることだ、と文科省は解説しています。

 

もちろんどれも大切な力ではありますが、私は、「自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動」する力が、これからは大切であると考えています。

 

そこでまず伺います。

Q1  区が考える「生きる力」とは何か、改めて伺います。

 

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「みんなの学校」という映画があります。

これは、2006年に開校された大阪市立「大空小学校」で行われている日常、教育の姿を追いかけた映画で、2013年にドキュメンタリー番組として放送され、文化庁芸術祭大賞をはじめとした多くの賞を受賞したのち、2015年には劇場版『みんなの学校』として全国の映画館で公開され大ヒットし、今も全国で上映会が続いているものです。

この映画については、これまでにも他会派の議員から紹介されたことがあり、この議場の中にも、この映画を見たり、大空小学校・初代校長である木村泰子先生の書かれた本を読んだり、木村先生ご自身の講演会に参加されたりした方が、多くいるのではないかと思います。

大空小学校は、児童数約220名のうち約30名が障害やさまざまな問題をかかえている児童がいる学校で、いっしょに授業を受け生活をしているので、さぞや大変だろうと思いきや、ここには不登校も、いじめもありません。「みんながつくる、みんなの学校」を合言葉に、教職員・児童・保護者・地域がいっしょになって学校つくりをしている。

ここから私たちが学ぶことは、たくさんあります。

木村先生は、その著書や講演の中で様々なことを語っておられますが、やはり「自分で考え、自ら学ぶ」力を育てることは大切にしておられます。

例えば、教室で質問をしたときに、なぜ全員が手を挙げないのか。それは、教師が自分の考える「正解」を答えてくれることを相手に期待した設問をしているからだ、と木村先生は言います。

間違った答えをしたら、間違ったと切り捨てられるのでしょうか。そう思うと、子供は手を挙げられなくなるのです。

「自分から自分らしく自分の言葉で語ること」を、「正解」が妨げている。

児童の考えがどう考えたか、教師がそれを受け入れられる設問の仕方をする。もし間違ったのなら、まず間違いを受け入れて、なぜ間違えたのか子供が自分で考えられるようにする。そのような工夫次第で、子供は積極的になり子供の力は伸びて行きます。

 

日本のほかの小学校がみな「大空小学校」のようではない、と私は思います。

なぜなら、学校では、自ら考え、主体的に判断する力を育てているはず なのに、

それができていない、というような統計やマスコミ報道が目立ちます。

例えば、穴埋めはできても、記述式試験が苦手 というのは、どういうことか?

日本の学校では、子供の「生きる力」を育もうとしていながら、果たして育っているだろうか。

生きるために自分で工夫できる、たくましさ が、どれだけあるだろうか、

自尊感情、自己肯定感 がどれほどあるだろうか。

そう考えると、不安が募ります。

 

前にも述べましたが、「教育」という言葉は、教えるの「教」の文字と、育てる・育むの「育」の文字からなっています。

教育界も、学校も、社会でも、教育の「教」すなわち正解を、あるいは正解を出す技術を教え込むこと出すことにまだ力が入り、「育」すなわち何もなくても自ら考え学び創り出し判断する力を養うことが、まだまだ置いて行かれているのではないか?

そのように思えてなりません。

 

そこで、お尋ねします。

Q2  児童・生徒は自ら考え、学ぶ力が弱いといわれていますが、どこにその要因があると考えているのか。また、教育委員会として、教員へはどのような働きかけ・研修を行っているのか、伺います。

 

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今は、多様性を認め合あう時代になりました。

子供が育ってきた家庭の価値観もばらばら、育て方もばらばら、生活リズムもばらばら、・・・多様化しています。

学校での教育にも多様性への対応が求められています。多様化した個々の児童生徒の特性、課題や問題点を見分けられる力、教師の力量がますます求められる。

ばらばらな児童生徒を見る教師は大変ですが、それをしなければなりません。

 

すべての子供に「生きる力」をつけさせる。

一億総活躍の時代といいますが、それは一律にガムシャラに働かせるためではなく、一人一人の特性にあわせて、すべての人に自己実現をし、幸福に暮らしてもらいたい、ということだと、私は解釈しています。

言い換えれば、育てられることから取り残され、引き籠り、いずれ社会から隔離されて陰に埋もれさせてしまうのではなく、自分らしく生きられるために、少なくともそれを可能にするだけの「生きる力」はつけさせたい。

 

それは、課題や問題を抱える子供も、抱えていない子供も同じです。

 

そこで伺います。

Q3  児童・生徒一人ひとりのもつ課題解決のために、区は、教員に対して、どのような研修を行い、どのような成果があるのか、伺います。

 

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児童生徒の多様化ばかりでなく、学級数の減少により校内の教員数は減り、教員一人当たりの校内作業量を増大させています。

学級運営をはじめ児童生徒の指導は担任教師ひとりで背負ってしまいがちなところもあると思いますが、これからは複数の教員や管理職を含めたチームで対応することが重要になってきていると思います。

 

そこで伺います。

Q4  「生きる力」をつけるために、一人も落ちこぼすことのないように、学校ではどのような体制を敷いているのか、伺います。

 

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また、チームで対応する場合に、それが有効に機能するかどうかは、そのリーダー格である管理職、特に校長の持つ認識、意識が重要だと考えます。

 

そこで伺います。

Q5  教育委員会として、校長や副校長に対する指導はどのように行っているのか、伺います。

 

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さて、

これからの教育には、学校と家庭と地域との連携が必要ですが、

特に家庭の役割が重要です。

 

以前にも述べましたが、本来家庭は子供が安心して生活できる居場所であり、

児童虐待の場であってはなりませんが、

一方で、過干渉、過保護の場であってもなりません。その弊害が大きいからです。

 

教育基本法の第10条では「子の教育について第一義的責任」は「父母その他の保護者」にある、と規定していますが、さらにその内容について「生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努める」こととしています。

 

家庭教育の在り方を誤解して、あるいは教育熱心なあまり、「教育」を知識や技術を教えることのみと捉え、家庭において偏った教育をしてしまうことが心配です。

 

「生きる力」は内面から湧き出てくる力、自ら考え判断しようとする力です。

知識として暗記したり、他人から押し付けられたり、教え込まれたりするものではありません。

 

私の埼玉県に住む友人に、児童生徒の不登校や、若者の引きこもり対策に取り組んでいる人がいます。

彼女は、空き店舗を借りてうどん屋を開き、引きこもりの若者の居場所・就労の場にしたり、不登校対策として親子のカウンセリングをしたり、最近は引きこもりなど若者の就労支援をしてくれる事業者探し・ネットワークつくりなどをしたりしています。

それを、個人で、組織を持たず、資金もなく、一人で道を拓きながら、仲間や賛同者を増やし、日々悪戦苦闘している、その姿には頭が下がる思いです。

その彼女の手記に、このようなものがあります。

「不登校やひきこもりの方の幼児期を遡ってみますと親に支配されて、いい子に育ってきた方が多いです。

そして、自己肯定感が育まれていないことも感じます。

その保護者の方も、一所懸命育ててきたのですが、子育ては学校では習いませんから、子どものためと思ってやってきたことが、裏目に出てしまうことも多々あります。

 

幼児期は、親の言うことを簡単に聞かせられますから、間違いに気付きません。

その結果は、思春期頃から出てきます。

その時になって、どうしてこうなってしまったのか、わからないという保護者が多いのが現状です。」

また、このようにも言っています。

「日本人は、親の支配が強いです。

お母さんの思い通りにならないとイライラしたり、怒ったりしてしまいます。

それは、子どもに依存、すなわち支配していることですので、そこに気付かないと本当の意味での信頼関係が築けないと思います。

先ほど、お母さんの自立の問題と言ったのは、そのことです。」

 

さて、彼女の手記にあるように、人を育てるということは、支配するということではありません。

子供の持つ力を引き出し、育てることです。

そのためには、子供がどのように育って行くのか、

成長には年齢ごとに段階があり、その段階ごとに特性があり、変わる。

その特性に理解を持ち、時には引き出し、励まし、時にはじっと黙って見守ってあげる。

子供とはそういうものだ、ということを知ってほしいと思います。

 

発達心理学にも通じるその観点を、保護者、親にもしっかりと持っていただきたいし、

学校も社会もそれを親に伝えて行く、一緒になって「子育ち」を応援して行く必要がある。

子供の内面と向き合い、子供が自ら考え発信し行動できる力を育てる「育」の大切さを、保護者もともに理解する必要がある、と考えます。

 

そこで伺います。

Q6  子供を伸ばすためには、成長に応じた保護者の理解が必要ですが、学校では保護者に対してどのようなことを行っているのか、伺います。

 

世の中には商業主義に根差した子育て論も氾濫していますが、そうではなく子供の成長の段階に根差した子供の理解、教育の在り方などを親に情報提供し、理解を促し、また支えて行く、いわゆる家庭教育支援がますます必要になってくると思います。杉並区には、その促進を期待しています。

 

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最後になりますが、

新しい学習指導要領では、「生きる力」をはぐくむことについて、

「主体的・対話的で深い学び」を進めることが掲げられています。

これは平成32年度から小学校で実施されますが、それに先駆けて、平成30年度から、まず幼稚園で実施されます。

知識教育であるならば就学後からでも構いませんが、「生きる力」を育む基礎は就学前の教育、育ちにあることを考えれば、幼稚園、そして保育園を含む就学前にこれを行うことには意義があり、就学前教育の無償化はそれを促進するものと考えます。

杉並区の就学前教育の取り組みにも期待をしています。

 

「生きる力」は、幼少期の家庭から、幼稚園や保育園など就学前教育の場で培い、さらに小学校、中学校、高等学校、と大人にいたるまで育てて行くものです。

 

最後に、

Q7  すべての児童・生徒の「生きる力」を育むために、今後の取組に対する区の決意を伺って、私の質問を終わります。

 

ありがとうございました。